2017年6月15日木曜日

人間失格を読んで。


太宰治に関しては昔からあまり良いイメージがなく、走れメロスは読んだ事があるくらいで、ずっと避けてきた。これには少々理由がある。

僕の父親はもともと作家志望で、最も傾倒していたのが太宰治だったのです、僕は父親の事を一芸術家としては大変尊敬しつつも、父親としては結構めちゃくちゃな人でしたので困惑したことが多々ありました。
それが故、父親像と太宰治はどうもダブルところもあり、太宰治を木村家の諸悪の根源だ、と小さい頃からずっと思っていました。

しかし偶然にもラジオで先日聞いてしまったものですから、気にもなり本をかって読んでみました。その主人公はそれはそれは他人とは思えないほど、父親というか自分というか、そんな気持ちで一気に読んでしまいました。

彼は最後まで人間との関わりに馴染む事が出来ず、おどけ、酒、最後はモルヒネと手を染めていわゆる廃人となって行くのです。
ああ父親は逆にこの滅びて行く様にずっと憧れていたのだろうな、と思った。

そんななんとも複雑思いがこみ上げてくる作品ではありますが、久しぶりに父親の汗の匂いを嗅いだ様な気がしました。

この作品の最後の下り、とても印象的で した。〝今は自分には、幸福も不幸もありません。ただいっさいは過ぎてゆきます〟
 そして第三者に言わせてはいるが唯一自己肯定しているあとがきの最後の下り〝わたし達の知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気が効いて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、、、神様みたいないい子でした〟

本当に涙が出ます。

2017年5月28日日曜日

愛想の悪い焼き鳥や

僕は、この人ひょっとして ぼくと同じ様な考え方する人ではないか 、と思う人にごく稀に出会うことがある。そういう場合、僕は積極的に話しかけ、すぐに友達になろうとは決してせず、まるで大好物のステーキを一気に平らげないがごとく ゆっくりとお近付きになろうとする  妙な習性を持っている。

僕が最近見つけた焼き鳥屋の店主もそのような人の様な気がする。
その店主はと言うと、扉を開けると八の字眉に、いらっしゃい、とも言わずにらみ返してくる。僕は「あのー一人なんです」と恐る恐る席に座ることに。
このタイミングで帰ってしまった客も何人か遭遇したことがあるくらい愛想が悪い。 

店内は8人も入れば満席となるほど狭く、店主は一人で全てまかなっている。 
厨房の壁にはひっそりと「汝の足元を深く掘れ、そこに泉あり」とニーチェの一節が汚い 字で紙に貼られている。メニューも焼き鳥以外は全て680円、焼き鳥以外はあまりたのんでくれるな感が値段に滲み出ている。

もちろん彼とは一言も喋ったことはなく、僕も話しかけようとはしない。
 しかしその店主の働きっぷりは中々ももので、注文を受けてからひとくしずつ手早く刺し、秘伝のタレにくゆらせて焼いたキモなどは絶品なんです。 
 
でも、どうして僕はこの店主に親近感をおぼえるのかな。
多分、この人は、人は好きなんだろうけど、それと同じくらい人の事が怖いのかな、孤独を愛している様にも見える、なんて勝手に思った。
反面、美味しい料理を出したいという心意気をいつも感じる。
 
こんな人なんぼ愛想が悪かろうが好きだなー、また、その人に安心するのは、おそらくこの人も孤独であることを肯定している様に感じるからだと思った。

2017年5月4日木曜日

髭について。

最近僕は髭をはやしだした。これは今風に言えば一種のコスプレ願望から来ているのでは?などと考えている。

鏡に映る自分を見たとき何時もと違う風貌にハッと軽く驚くと共にほんの少し安心した様な変な気持ちになる。

でもなんで少し安心した気持ちになるのかを考えていて、ふと気付いた。

それは自分なんだけどちょっと自分では無い、ちょっとだけ架空の存在に見えるからなんじゃ無いかな?と思った。だから少しだけ安心したのかも、と思いました。

考えてみれば、僕は何時も自分の自我に悩まされている様に思う。自我が強すぎてどうもそれがいつもウザく感じまた、賤しいなーと思うのです。もっと何事もアッサリ考え感じたいと思う。

それがいつもと違う自分が鏡に映った時、自分なのに少しだけ自分でない、いつも悩まされる自我からほんの少しだけ解放されているんだ!だから少し安心したのかも?と思う。

コスプレしている人は多かれ少なかれ そう言う気持ちが働いているのかな?

自我は出来れば死ぬまでに全部消してしまいたいと言うのが僕の理想かもしれません。

それは例えば、仮に誰かが僕を否定的に罵ったとしても、悲しみや怒りなど自分の中に存在しない。

例えば、僕を世界中が賞賛しても、喜びや気持ちの高揚が自分の中に存在しない。という事です。






2017年4月9日日曜日

ミニマルミュージックにハマっていた頃の作品。
whisper in the forest



https://yohttps://youtu.be/C6z7huTEcgk


〝愚者とつるむな〟仏陀の初期仏典の一説。
 
どう言う意味なのか?これも受け取る側の解釈は様々でしょうけれど、

僕が考える愚者とは、死刑囚でも、総理大臣でも、フリーターでも、サラリーマンでも、道端でねている酔っ払いでもない。

では何が愚者だというと、例えば、〝挨拶はしなければいけない〟ということについて、
では何故挨拶をしなくちゃいけないの?とゆう問いに対して 〝そんなん常識やろ〟と言ってしまう事だと思う。

つまり、世間の大多数の意見である常識を、そのまままるで自分のアイデンティティと合同であるかの様に、何も考えるずに 〝常識〟と言う大きな傘に隠れて横暴にふるまう、自分の考えと常識との間に生まれるギャップを何の抵抗もなく、〝常識〟を受け入れる、これが僕にとっての〝愚者〟だと思うのです。
所謂 寄らば大樹の陰、の自動運転、と言う事です。

日本はこの〝常識〟と言う事に関してあまりにも従順であるとおもうのですが、では何故この常識と言う言葉を重要視するのか?

これは色々な人が指摘している事ですが、所謂 徳川300年、の間に、国民をコントロールするために築き上げられた、政治的な意思  だと僕も思うのです。お上に逆らえない様な雰囲気、とでも言いましょうか。
何も考えなくても、お上の言う事を聞いていたら安泰だ!とババくじを引かされている事にも気付かせず、ジワリジワリと武力 権力でもって 治めていった、と言う事ではないかとおもう。

ところで、常識は隣の国の非常識、は身近に沢山存在する。
例えば 蕎麦を食べるのに音を立てて食べるのが日本では常識ですが、西欧人は音を立てるのは行儀が悪い、とされる。

つまり常識は国によって違うと言う事からも 実態はなく また人間の真理でも無い。逆に言うと、地域地域の生活上の都合で作り上げて出来たものといえる。そう考えと常識なぞそんなに大事な事でも、守るものでも無いのでは?と個人的には思う。

冒頭、愚者などと言ってしまいましたが、個人のアイデンティティに気付き、築き上げるのは、日本は歴史的にみても難しい土壌かもしれません。300年かかって築き上げられたものを、明治以降の150年で消えてしまう事などないと思うのです。徳川300年は今も生き続けていると言えるのではないでしょうか?

常識なんて一番信用していない!


キリストの復活とヨーロッパ文化の発展について。

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キリストの復活とヨーロッパ文化の発展について。

キリストは聖書によると十字架にかけられ、いちど息をひきとったのち、再び復活したという事は、キリスト教において最も重要な出来事であり、また信者の人々の心の大きな拠り所であることは周知の通りです。
僕は、キリスト教のことは全くの不勉強でキリスト教についてどうこう語る資格が無い、と言うことを前提に、このキリスト復活とヨーロッパ文化の発展について考えたことを述べます。

そもそも、全ての動物、植物、生きるもの全ては、また宇宙までもが、やがては死に消え失せることは、絶対的宿命であることは、誰しも疑いようの無い真実です。いわゆる自然の法則であるわけですが、いちど息を引き取った人間が再び復活するという事は、神のみが可能とする領域であり、逆に我々は全く不可能の領域となります。この復活は多くのキリスト教信者をとてつもなく勇気づける事であることは、信者で無い僕にも想像がつきます。
もし全ての生き物はいずれ死ぬという事が仮に 自然、と仮定すると、キリストの復活とは、まさに自然、宇宙を凌駕した存在と言う事になります。要は自然と言う普遍的絶対的宿命を乗り越えた、と言う事です。
この事実こそが、西暦が始まって以来ヨーロッパを発展させ、また歴史的にみても、世界のリーダーたらしむる大きな原動力になっているのでは無いだろうかと、考えるようになりました。

みじかな事で言いますと、西洋医学に於いては、基本的には病原体を叩く事によって病気を治す、といった手法、理念が根底にあると思います。病原体自身はなんらかの理由により、自然発生した物と言えますが、それを人間の英知でもって凌駕しようとする行為が西洋医学であるのに対し、東洋的には、何がしかの医療行為によって、免疫力を促す、或いは、血流を促す、みたいな、所謂病原体を叩くという発想ではないように思えます。
あくまで自然に寄り添った発想ではないかと思います。

もう一つ例を挙げると、西欧人は山を登る時、attackするといいます。この言葉からしても、自然に立ち向かう、自然を人間の力、英知によって凌駕する姿勢が感じられます。一方東洋的には山にたいしては、むしろ畏怖の念をもっている。自然に対しても同じ感覚であって、決してそれに対して打ち勝とうという発想はないと思う。

このように西欧の人々は、自然というものを乗り越えて、より良い社会を創造しようとしていますが。その根底にある底力、自信は、キリストの復活、いわば神という存在は、自然をも超越するということを、根底から信じているが故に、自然に対し挑みつづけた結果として現在の医療、科学諸々今の西欧を大きく発展させてきたのだと想像したりします。

「それって古いよね」と言われたものは、実は偽物だった、とまでは言えないけれど、時代と言うものは残酷で、ある時代にいくらもてはやされたとしても、つまり時代が変わればいとも簡単に〝ふるっ〟と言われてしまう。例えば、80年代に流行った曲のを聴いた時に、ふるっ、と思うものとそうでない曲がある。これは好みな問題ではないように思う。

例えば、マイケルジャクソン、ビートルズ、モーツァルト、バッハ、サティ、ゴッホ、ピカソ、セザンヌ、を古い!なんてゆう人はあまりいないとおもう。

それって古いよね、と言う残酷な世間評価を乗り越えることは至難の様に思うかも知れないけれど、しかし、意外と誰もがその才能を秘めていると僕は信じているし真実だと思う。

時代を超えた創作物とは、自分のCoreのさらにまたCoreを徹底的にみつめ、人生の全てをそれに捧げる。ということなのだと思う。なかなか出来る事ではない。命を捧げる位のことだから。

そんな者になる必要など全くない!と言うのが世間一般の大半の意見かもしれませんが、僕は有名無名は兎も角、ふるっ!と未来の人達に言われたくない、と思いますし、その気概を持って創作に演奏に従事していきたいと考えています。