2017年12月28日木曜日

孤独について。

昨日テレビで五木寛之さんが、孤独について述べられていた。彼は孤独に生きる事の重要性を語っていましたが、僕も同じ様な事を常に意識し考えています。

僕の自論では、孤独に生きるとは裏を返せば、自由に生きる、と言えるからです。例えば、自分はもはや孤独なんだと諦めると、とたんになんのしがらみも無くなる訳で、何をも気になる事が無くなる。自由に発想でき、自由に行動も可能になる。

例えば、他人から何か自分をバカにする、軽んずる様な態度を目の当たりににしたとしても、もはや自分は孤独に生きるんだ!という覚悟があればほとんど気にならないだろうし、別の角度からみると、義務教育だって、学校は中学までは行くべきだという雰囲気の中、僕は孤独に生きるんだ!と言うませた子供がいたとして、その子にとって学校はもはや重要なものでは無くなる。学校に行かなければならないと言う事から解放される。つまり孤独とは一般的にネガティブな印象が強いですが、意外とそうでもなく、むしろ自由をその人に与えるとも言える。

我々はみんなと仲良くしよう!力を合わせて!一丸となって、絆、などと言う言葉をポジティブなイメージとして教育を受けてきた。しかし逆に残酷な裏側もはらんでいるとも言える。

若者の自殺などはほとんど、その様なポジティブな思想に対するプレッシャーによるものだと僕は思う。友達に無視される。など確かに残酷、絶望的です。しかし人間は本来孤独に生まれ生き、孤独に死んで行くものだと、仮に教育されていたならば、まだ友達から無視された事も少しは楽に感じれるのでは、と思う。「みんな仲良く」「皆んなで一緒に食事」と言う言葉と思想は裏にはその様な残忍性が有ると思うのです。

では何故皆仲良くしなければいけないのか、何故孤独であってはいけないのか、については、そもそも歴史は古く、人間が農耕をしだした、一万年前にさかのぼる。それまでの狩猟採集生活では大勢の人の力が必要でなかったのに対し、農耕が開始されると、1人で作業するよりある程度の人が集まって作業した方がより多く安定的に収穫出来る訳です。

近年で言うと、世の中個人事業主ばかりだと税金が徴収しづらいが、社員が多数の会社であればあるほてど安定した税金が徴収出来る。だからみんな仲良くしてより良い社会を共に作りましょう!と管理者側はもっともらしく、また道徳なども混ぜ込んで教育する。この様なことが実は裏側にある本当の理由であると考えています。

みんな仲良くしよう!と言うスローガンの裏にはそういった権力者側の都合も無いとは言えない。

話はそれましたが、孤独に生きにくい世の中ですが、孤独であって良い、と言うか孤独に生きる事の方がむしろ正しいんだと思うと、いろんな事がバッと拓ける、と僕は思います。

ところで、人は生死を賭けた大ピンチに立った時、絶対に誰も助けてくれない。手を差し伸べてはくれないものだと僕思っている。少なくとも僕の過去に起こった大ピンチではそうであった。その様な体験を経て、孤独を肯定的に考えるようになった。と言うか皮肉にも孤独の持っている裏側の「自由」に気づくキッカケになったわけです。

2017年12月10日日曜日

クリスマスの夜はスーパーリコーダーカルテットのコンサートで!

クリスマスの夜はスーパーリコーダーカルテットのコンサート!

来たる12/25 (19時開演)梅田フェニックスホールにて、スーパーリコーダーカルテットのコンサートがございます。
僕が編曲した、クリスマスメドレー他枯葉、ダニーボーイ、オリジナルの永遠の光 などが演奏されます。当日コンサートでの曲が収録されたCDも発売されます。本当に素晴らしいCDに仕上がりました。

また1/14 は上野の東京文化会館にてニューイヤーコンサートもございます。ここでは新作編曲作品もご披露する予定です。
東京方面の方も是非いらして下さい。僕も行く予定です。

2017年11月28日火曜日

恐怖について。

僕が尊敬している人は何人かいますが、そのうちの1人にマイクタイソンがいる。

言わずと知れた元ヘビー級チャンピオンですが、彼の発言は常軌を逸している。
その中でも特に印象に残ってる言葉に、
「人生でどうしても達成したい何かがあるのなら、お前は幸せを捨てる意思を持たなくてはならない。恥の気持ち、内気さ、俺はセンシティブな心をすべて失ってきた。こういったものを捨てなければならないんだ」

誰しも幸せになりたいと思うものですが、確かに何か大きな目標を達成する為に捨てなければならないのは、「幸せ 」かも知れない。

この様な思想は僕の尊敬する人達に共通している。

僕もそろそろその様な覚悟を持つ時期が来ているのを感じる。でなければ何もしないで一生を終える事になる。それはそれで僕にとっては最大級の恐怖。

それは見送り三振ゲームセットみたいなもの。




2017年10月31日火曜日

変な人

僕はどうやら極端なことをする人が常に気になるらしい。

今日もいつも行く居酒屋で、顔半分くらいあるメガネをかけた、40代くらいの女性が近くに座った。こんなデカイメガネは今まで見た事が無いと思えるほど大きい。

彼女はおもむろにに瓶ビールをたのんでいた。瓶ビールをいきなり頼むのは、飲兵衛の証拠。

しかしなんでそんなにもメガネがデカくある必要があるのか?について、ずっと考えた。

しかし本人に聞くこともなく店を出た。

帰りの電車の中でもずっとその事を考えた。


思えば、僕は子供の頃の友達は、ユニークな人が沢山いた。
例えば、全ての成績がオール1 なのに算数だけは常に5のやつ。ヘビを平気で振り回すやつ。喧嘩は絶対誰にも負けないやつ、 出来事と言う漢字をしゅつらいじ、と読むやつ、大学に焼酎をラッパ飲みしながら登校し、あさからベロンベロンの人、などなど。

僕はその人達と仲良くつるんでいたわけですが、今思えば、そんな極端な人に対しての憧れと言うか、どうしてそうなんの?と彼らの行動が気になりつつ、つるんでいた。

なんであなたは算数は天才的なのに他は1なの?
何故ヘビを振り回すの必要があるの?
なんでそんなに喧嘩が強いの?
なんで出来事と言う漢字をしゅつらいじと読むほどバカなの?
なんで朝から焼酎のボトル口にくわえて自転車で投稿してるの?

その様に思った瞬間からその人の事が気になってしかたがなるのです。

僕は昔から一般的な物や事には一切興味がわかない。代わりにいわゆる変な人への憧れはとても強かった。


そんな事を今日もデカメガネのお姉さんがきづかせてくれた。

2017年10月8日日曜日

マイアイドル。

作曲家、武満徹は僕のアイドルでした。

今日、たまたま呼んでもらったジャズのライブで武満さんの「小さな空」と言う曲を演奏することに。

ボーカルとベース(僕)のデュオで始めては?と言うピアニストの勧めでイントロを弾いてみた。歌が始まり全くのデュオのまま曲が進んで行く。

あまりに素朴で、ポップで、優しく、包みこむ様なメロディと歌詞に、思わず演奏しながら少し泣いてしまった。

ボーカルの凄い表現力、ピアニストの粋な計らい。そして最後まで結局一音もたたかなかったドラマー。皆が音楽に集中していた。

彼は現代音楽では、何か厳しい、また日本独特の幽玄を誰よりも巧みに表現した作曲家だと僕は思う。

そんな彼がこんなにポップなメロディで人を泣かせるなんて、本当に彼はズルい!!ズルすぎる(涙)

2017年10月6日金曜日

苦手な事は宝物。

僕は小学生の頃から本を読むのがとても嫌いだった。その理由の一つに、言語能力が人より劣っている事の他、もう一つ理由がある。

僕の父親は、作家になることを目指していましたが、デビューなどはできず、しかしながら広告代理店でコピーを書くいわばプロの物書きだったのです。

父親は、僕が喋る内容が理解出来ないのか、はたまた文法的に変なのかわかりませんが、何時も僕が何か言うと、「なにゆうてるかわからん」と言われた。
また、父は本を斜め読みが出来るみたいで、僕も本は斜め読み出来ないといけないんだ!と小学生ながら思いました。しかし斜め読みしたところで内容がわかる訳が無い。

そんな事で言語能力に苦手意識を持った僕の国語の成績は他とくらべ何時も悪かった。

例えば、「それを指しているのは、どれにあたりますか?三文字で答えよ」みたいな問題を正確した事がない。

そんな事で僕は長く間日本語コンプレックを持ち続けました。

それから何十年と月日が過ぎ、ちょうど厄年に入ったころから、僕は精神的に患い、先が全く見えない時期が長く続いた時期がありました。ちょうどその時期に、今までコンプレックを抱き続けた読書をはじめました。

その時、どうせなら皆が読まない、精神性の高い本を読みたい、それを読む事でこの苦しみから少しでも逃れる事のヒントを見つけられたら、と思いました。

当時、ドストエフスキー、ショーペンハウワー、ゲーテ、三島由紀夫、初期仏教、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教関連の書籍などを読みあさりました。

僕はまさかドストエフスキーなど一生読まないし理解出来っこないと思っておりましたが、ゆっくり亀の様に読めば、全然難しく無いし、夢中で読みました。

それは何よりも、生きるヒントを死にものぐるいで探していたから読めたのかもしれません。

有難い事に、それ以来、僕にとって本を読む事はとても大事な事となりました。

本を読むのが極端に遅いからこそ、読解力が人より劣っているからこそ、ゆっくり味わって読む事が出来る。

苦手な事が幸いする一つの例かも知れません。

2017年10月2日月曜日

蛾の第六感。

蛾の種類の中に メスが極端に少ない種類があり、その種のオスは、何キロも離れたメスを探し当てる能力があると言う。

大阪で言うと梅田にいるオスの蛾が天下茶屋のメスを探し当てる様なものです。

自然界には他にも、鮭の遡上や 渡り鳥など、産まれ故郷を探し当てるという、また葉っぱや木の模様そっくりな虫などもいる。その様な超ハイテクなナビや変身術を備えた動物は少ないない。

これらは、みな種の保存を目的とし、それを果たすべく身に付いた能力と言えますが、、

それにしてもこれは本当に驚くべき事です。

人間だと、地図やナビや羅針盤無しに正確にその場所に行く事はかなり難しいと思う。

しかし何故、その動物達は正確に探し当てる事が出来るのか?

ヘッセの今読んでいる、デミアンには次の様に述べられている。

「種を保存する、と言う強い意志から産まれた第六感がメスを探し当てるのだ。」と。

つまり、強い意志は、想像もつかない能力を育て上げ、第六感をも使い、やがてはその意志の目的にたどり着く、と言える。

最近、僕は意志によっていかようにも変化していけると信じています。
それは、先に挙げた動物達のそれぞれの素晴らしい能力が、明らかに実証してくれていると言えるからです。

ところで、政治家がよく使う言葉に、夢、希望、と言う言葉もある種同義語とも言えなくもないけれども、なんか耳触りが良すぎてもう一つ信用出来ない。意志、と言うのが一番分かりやすいのでは?と思う。



2017年10月1日日曜日

ヘッセとの出会い。

これは果たして偶然なんだろうか?と思ってしまう出会いは、誰しも経験があると思います。
例えば、あいつどうしてるんだろうなー、と思っていると、その何年も会っていない友人から突然連絡が入った、とか。

最近僕は意志についてよく考える事がありますが、正にそれについてググッと迫る小説に出会いました。

ヘルマンヘッセは、僕は全く読んだ事も無く、特にどういう作家かも知らなかったのですが、自宅で読む本が無くなったので、妻の本を漁っていると、ヘッセの 車輪の下 とデミアン と言う題名の古い本を見つけた。

まず 車輪の下を読みましたが、これがとても馴染みました。これは、ある天才と言われた少年が町の人の期待を背後に、難関とされる神学校に見事二番で合格するのですが、そこでの生活は規律正しい、また画一的なものであった。その様な生活や信仰に疑問を持ち出した主人公ハンスは、詩人の天才ハイルナーと出会い、彼の持っている思想、知識に大きく影響を受ける。反面、異端児で皆から嫌われているハイルナーと微妙な距離を置く。そしてついに神学校を脱走し、期待していた町の人からは精神病とみなされ、孤独の淵へと自ら進む。

と言った内容。ヘッセは異国で時代も違う人なのに、なぜか考えや物の感じ方が解る部分が多く、それだけにのめり込む。本当に良い出会いであったと思う。

いまデミアンを読んでますが、ここには、意志についてのヘッセの考えが書かれているが、自分が考えていた事がそのまま書かれているのには、ビックリしました。


ヘッセに会ってみたいと思ってしまいます。

2017年9月22日金曜日

意思と意志

僕は今まで、自分は神経質な人間だ、とか人に対して恐怖しがちだ、とか色々と勝手に自己分析をしては、自分はそういう人だから こう言う場所には行かないだとか、こう言うタイプの人は苦手 とどんどん行動範囲を狭めてきたと思う。

しかし 今現在の僕は果たして本当に神経質なんだろうか?本当に人嫌いなんだろうか?
と考えると、それは今まで経験してきた過去のデータをとおしておおよそこんな人間だろうと思い込んでいるだけで、実際は神経質だとも無神経だとも言えないのでは?と思う。

人間はその日一瞬一瞬の思いと意志で行動する。例えば、今日は天気が良いから山に登ってみよう!朝眠いけど頑張って仕事行こう。
逆にポーッとしていて、気が付けば夕方になっていた、 また上司の前で緊張して言いたい事が言えなかった、など様々。

そうゆう事の連続で自分はどう言う人だと言うキャラクターが決まって行き、やがては俺は意志が強いだとか、神経質だとか勝手に思い込む。あげくの果てには、例えば緊張するタイプの人だと、上司の前では言いたい事を恐らく言わないだろうな、などと事前に決めつけて、実際にやはり何も言えなかった、と言う風に。

しかしこれは、自分の「俺は気が小さい」と言う思い込みが、何も言えない自分に誘導していると言う事になるのでは?と思う。

人間は一瞬一瞬の意思や意志によって次の行動にでる。仮に自分は神経質だと自己評価している人でも、この瞬間から神経質はやめた!と思えば、一瞬にして人は変われるものだと思うようになってきた。
何故かと言うと、神経質だと言う自己評価は過去の経験から生まれた幻想であり故に、現在の自分に決して当てはまるとは言えない。
逆に言えば、この一瞬の意志判断によって劇的に変化する可能性をもっていると言える。にも関わらず、俺は神経質だからと言う過去の幻想にとらわれ、その一瞬一瞬のチャンスを今まで通りのネガティヴな性質に流れてしまうのは、もったい無い事だと考える様になった。

画家の岡本太郎さんは、「自分は神経質な人間だから、なんて言うのは自惚れだ!そんな事はどうでもよい、一瞬一瞬を爆発させろ!」などと言っていたのをおもいだす。

人間は一瞬にして変化できると僕は信じている。過去の自分に囚われさえしなければ。

過去は、もうどうしようもない 。手にとって実感する事は不可能だし塗り替える事もできない。そんなものに囚われるより、唯一手にとって実感できる今の方が何万倍も価値があるとおもうのです。


その価値のある今、例えば「神経質をやめた!」と思い行動すれば、同じ景色が今までと違って見えるとおもう。大事な事は一瞬一瞬の意思と行動だとおもうのです。

2017年9月8日金曜日

目黒リコーダーオーケストラの委嘱で書かせて頂きました。cathédrale

ピアノソロバージョン。

https://youtu.be/-WoMGfcnovw
僕は元々人前に立つのがとても苦手であった。今も変わりなく、時に緊張のあまり 額に汗が大量に出たり、足がワナワナ震えたり、喉がカラカラになることもままある。

この様な自分を今まで、みっともないな〜、カッコ悪いな〜、と恥ずかしく、また卑しいな、などと嫌悪していました。


先日、テレビをみていたところ、古い木造校舎ばかりを撮る写真家が特集されていた。
ロン毛でなんか内向的で、しかしちょっとオシャレな容姿。

彼は小学生のころ、イジメ、などから不登校になり長年に渡り引きこもる生活をしていた。元々対人恐怖症などもあったので、みんなと溶け込めなかったのでしょう。

その彼が、ある時から木造校舎に魅せられ、父と一緒に全国を飛び回って廃校を撮り続け、やがて古い写真を撮る事が自分の使命、仕事だと確信していく。

番組の中で、現在の彼が、母校にて小学生の前で講義するシーンが映し出されていた。内容は、小学生のころの苦い経験、引きこもり、そして写真を撮る事を生業となった現在までのプロセスと、彼の思いを語る、というもの。

小学生相手とはいえ、今も対人恐怖症などは変わらないのでしょうか、彼は明らかに手がワナワナ震えていた。しかししっかりと自分の考えを述べていた。小学生も真剣に聞き入っていた。

僕はそのワナワナ震えた手を見た時、決してカッコ悪いとか、みっともないとは思わなかった。

むしろ、素敵だな、ちょっとカッコ良い!とさえ思った。恐らく、震える手のカッコ悪さを乗り越え、自分の信念を皆んなに必死で伝えようとする姿に感動したのだと思う。
と同時に 同じ様な自分を肯定出来るきがした。

大事な事は、全て自分の中にある、いくら表現が不細工でも、信念と勇気があれば相手にはチャンと伝わる、と思った。

よーしこれからは、堂々と額に汗をかき、震え、喉をカラカラにさせよう!カッコの悪い自分を全面にさらけ出せば良い、と思った。

どんなに無茶苦茶になっても、自分の信じている筋を、美しいと思う事を、正しいと思う事を相手にぶつければ良いんだ! とその彼に気づかせてもらったきがした。

カッコ悪いって、実はカッコ良いのだ、

カッコ良いって、ちょっとカッコ悪いのかも?とも思った。

2017年8月15日火曜日

川端康成 山の音を読んだ。

三島由紀夫が「芸術として完璧な作品 」と絶賛していたのがきっかけとなった。

この作品は、家の裏山の山の音に自分の死期を予感した老年の男性が 自分の息子の嫁 菊子に淡い恋心を描く、と言うのが主題。

まず驚かされたのは、構成なんですが、どこまで行っても物語の起伏が 限りなく平坦で、劇的なクライマックスなどはほとんど見られない。謂わば淡々と時間が静かに流れていると言って良い。
普段から作曲をする僕にとって、常に構成に関して神経をそそぐけれど、この様な平板な流れはとても恐ろしくて書けない。だってクライマックスが殆どないんだもの。

しかし一方では、錆びつこうとしている主人公、清らかな菊子、戦争により精神が腐りかけている長男を交互にグラデーションする事によって、日本人独特の情念や 悲しみが醸し出されている。
古い畳の匂いがする簡素な部屋に 白いいちりんの百合がいけてある。と言った印象を受ける。

反面、究極のエロチシズとも言えるのではなかろうか。 それを想像させるシーンは一度も現れないが、、、

また、老年の恋、と言う未だ未経験の感情に強い好奇心を持った。

2017年6月15日木曜日

人間失格を読んで。


太宰治に関しては昔からあまり良いイメージがなく、走れメロスは読んだ事があるくらいで、ずっと避けてきた。これには少々理由がある。

僕の父親はもともと作家志望で、最も傾倒していたのが太宰治だったのです、僕は父親の事を一芸術家としては大変尊敬しつつも、父親としては結構めちゃくちゃな人でしたので困惑したことが多々ありました。
それが故、父親像と太宰治はどうもダブルところもあり、太宰治を木村家の諸悪の根源だ、と小さい頃からずっと思っていました。

しかし偶然にもラジオで先日聞いてしまったものですから、気にもなり本をかって読んでみました。その主人公はそれはそれは他人とは思えないほど、父親というか自分というか、そんな気持ちで一気に読んでしまいました。

彼は最後まで人間との関わりに馴染む事が出来ず、おどけ、酒、最後はモルヒネと手を染めていわゆる廃人となって行くのです。
ああ父親は逆にこの滅びて行く様にずっと憧れていたのだろうな、と思った。

そんななんとも複雑思いがこみ上げてくる作品ではありますが、久しぶりに父親の汗の匂いを嗅いだ様な気がしました。

この作品の最後の下り、とても印象的で した。〝今は自分には、幸福も不幸もありません。ただいっさいは過ぎてゆきます〟
 そして第三者に言わせてはいるが唯一自己肯定しているあとがきの最後の下り〝わたし達の知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気が効いて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、、、神様みたいないい子でした〟

本当に涙が出ます。

2017年5月28日日曜日

愛想の悪い焼き鳥や

僕は、この人ひょっとして ぼくと同じ様な考え方する人ではないか 、と思う人にごく稀に出会うことがある。そういう場合、僕は積極的に話しかけ、すぐに友達になろうとは決してせず、まるで大好物のステーキを一気に平らげないがごとく ゆっくりとお近付きになろうとする  妙な習性を持っている。

僕が最近見つけた焼き鳥屋の店主もそのような人の様な気がする。
その店主はと言うと、扉を開けると八の字眉に、いらっしゃい、とも言わずにらみ返してくる。僕は「あのー一人なんです」と恐る恐る席に座ることに。
このタイミングで帰ってしまった客も何人か遭遇したことがあるくらい愛想が悪い。 

店内は8人も入れば満席となるほど狭く、店主は一人で全てまかなっている。 
厨房の壁にはひっそりと「汝の足元を深く掘れ、そこに泉あり」とニーチェの一節が汚い 字で紙に貼られている。メニューも焼き鳥以外は全て680円、焼き鳥以外はあまりたのんでくれるな感が値段に滲み出ている。

もちろん彼とは一言も喋ったことはなく、僕も話しかけようとはしない。
 しかしその店主の働きっぷりは中々ももので、注文を受けてからひとくしずつ手早く刺し、秘伝のタレにくゆらせて焼いたキモなどは絶品なんです。 
 
でも、どうして僕はこの店主に親近感をおぼえるのかな。
多分、この人は、人は好きなんだろうけど、それと同じくらい人の事が怖いのかな、孤独を愛している様にも見える、なんて勝手に思った。
反面、美味しい料理を出したいという心意気をいつも感じる。
 
こんな人なんぼ愛想が悪かろうが好きだなー、また、その人に安心するのは、おそらくこの人も孤独であることを肯定している様に感じるからだと思った。

2017年5月4日木曜日

髭について。

最近僕は髭をはやしだした。これは今風に言えば一種のコスプレ願望から来ているのでは?などと考えている。

鏡に映る自分を見たとき何時もと違う風貌にハッと軽く驚くと共にほんの少し安心した様な変な気持ちになる。

でもなんで少し安心した気持ちになるのかを考えていて、ふと気付いた。

それは自分なんだけどちょっと自分では無い、ちょっとだけ架空の存在に見えるからなんじゃ無いかな?と思った。だから少しだけ安心したのかも、と思いました。

考えてみれば、僕は何時も自分の自我に悩まされている様に思う。自我が強すぎてどうもそれがいつもウザく感じまた、賤しいなーと思うのです。もっと何事もアッサリ考え感じたいと思う。

それがいつもと違う自分が鏡に映った時、自分なのに少しだけ自分でない、いつも悩まされる自我からほんの少しだけ解放されているんだ!だから少し安心したのかも?と思う。

コスプレしている人は多かれ少なかれ そう言う気持ちが働いているのかな?

自我は出来れば死ぬまでに全部消してしまいたいと言うのが僕の理想かもしれません。

それは例えば、仮に誰かが僕を否定的に罵ったとしても、悲しみや怒りなど自分の中に存在しない。

例えば、僕を世界中が賞賛しても、喜びや気持ちの高揚が自分の中に存在しない。という事です。






2017年4月9日日曜日

ミニマルミュージックにハマっていた頃の作品。
whisper in the forest



https://yohttps://youtu.be/C6z7huTEcgk


〝愚者とつるむな〟仏陀の初期仏典の一説。
 
どう言う意味なのか?これも受け取る側の解釈は様々でしょうけれど、

僕が考える愚者とは、死刑囚でも、総理大臣でも、フリーターでも、サラリーマンでも、道端でねている酔っ払いでもない。

では何が愚者だというと、例えば、〝挨拶はしなければいけない〟ということについて、
では何故挨拶をしなくちゃいけないの?とゆう問いに対して 〝そんなん常識やろ〟と言ってしまう事だと思う。

つまり、世間の大多数の意見である常識を、そのまままるで自分のアイデンティティと合同であるかの様に、何も考えるずに 〝常識〟と言う大きな傘に隠れて横暴にふるまう、自分の考えと常識との間に生まれるギャップを何の抵抗もなく、〝常識〟を受け入れる、これが僕にとっての〝愚者〟だと思うのです。
所謂 寄らば大樹の陰、の自動運転、と言う事です。

日本はこの〝常識〟と言う事に関してあまりにも従順であるとおもうのですが、では何故この常識と言う言葉を重要視するのか?

これは色々な人が指摘している事ですが、所謂 徳川300年、の間に、国民をコントロールするために築き上げられた、政治的な意思  だと僕も思うのです。お上に逆らえない様な雰囲気、とでも言いましょうか。
何も考えなくても、お上の言う事を聞いていたら安泰だ!とババくじを引かされている事にも気付かせず、ジワリジワリと武力 権力でもって 治めていった、と言う事ではないかとおもう。

ところで、常識は隣の国の非常識、は身近に沢山存在する。
例えば 蕎麦を食べるのに音を立てて食べるのが日本では常識ですが、西欧人は音を立てるのは行儀が悪い、とされる。

つまり常識は国によって違うと言う事からも 実態はなく また人間の真理でも無い。逆に言うと、地域地域の生活上の都合で作り上げて出来たものといえる。そう考えと常識なぞそんなに大事な事でも、守るものでも無いのでは?と個人的には思う。

冒頭、愚者などと言ってしまいましたが、個人のアイデンティティに気付き、築き上げるのは、日本は歴史的にみても難しい土壌かもしれません。300年かかって築き上げられたものを、明治以降の150年で消えてしまう事などないと思うのです。徳川300年は今も生き続けていると言えるのではないでしょうか?

常識なんて一番信用していない!


キリストの復活とヨーロッパ文化の発展について。

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キリストの復活とヨーロッパ文化の発展について。

キリストは聖書によると十字架にかけられ、いちど息をひきとったのち、再び復活したという事は、キリスト教において最も重要な出来事であり、また信者の人々の心の大きな拠り所であることは周知の通りです。
僕は、キリスト教のことは全くの不勉強でキリスト教についてどうこう語る資格が無い、と言うことを前提に、このキリスト復活とヨーロッパ文化の発展について考えたことを述べます。

そもそも、全ての動物、植物、生きるもの全ては、また宇宙までもが、やがては死に消え失せることは、絶対的宿命であることは、誰しも疑いようの無い真実です。いわゆる自然の法則であるわけですが、いちど息を引き取った人間が再び復活するという事は、神のみが可能とする領域であり、逆に我々は全く不可能の領域となります。この復活は多くのキリスト教信者をとてつもなく勇気づける事であることは、信者で無い僕にも想像がつきます。
もし全ての生き物はいずれ死ぬという事が仮に 自然、と仮定すると、キリストの復活とは、まさに自然、宇宙を凌駕した存在と言う事になります。要は自然と言う普遍的絶対的宿命を乗り越えた、と言う事です。
この事実こそが、西暦が始まって以来ヨーロッパを発展させ、また歴史的にみても、世界のリーダーたらしむる大きな原動力になっているのでは無いだろうかと、考えるようになりました。

みじかな事で言いますと、西洋医学に於いては、基本的には病原体を叩く事によって病気を治す、といった手法、理念が根底にあると思います。病原体自身はなんらかの理由により、自然発生した物と言えますが、それを人間の英知でもって凌駕しようとする行為が西洋医学であるのに対し、東洋的には、何がしかの医療行為によって、免疫力を促す、或いは、血流を促す、みたいな、所謂病原体を叩くという発想ではないように思えます。
あくまで自然に寄り添った発想ではないかと思います。

もう一つ例を挙げると、西欧人は山を登る時、attackするといいます。この言葉からしても、自然に立ち向かう、自然を人間の力、英知によって凌駕する姿勢が感じられます。一方東洋的には山にたいしては、むしろ畏怖の念をもっている。自然に対しても同じ感覚であって、決してそれに対して打ち勝とうという発想はないと思う。

このように西欧の人々は、自然というものを乗り越えて、より良い社会を創造しようとしていますが。その根底にある底力、自信は、キリストの復活、いわば神という存在は、自然をも超越するということを、根底から信じているが故に、自然に対し挑みつづけた結果として現在の医療、科学諸々今の西欧を大きく発展させてきたのだと想像したりします。

「それって古いよね」と言われたものは、実は偽物だった、とまでは言えないけれど、時代と言うものは残酷で、ある時代にいくらもてはやされたとしても、つまり時代が変わればいとも簡単に〝ふるっ〟と言われてしまう。例えば、80年代に流行った曲のを聴いた時に、ふるっ、と思うものとそうでない曲がある。これは好みな問題ではないように思う。

例えば、マイケルジャクソン、ビートルズ、モーツァルト、バッハ、サティ、ゴッホ、ピカソ、セザンヌ、を古い!なんてゆう人はあまりいないとおもう。

それって古いよね、と言う残酷な世間評価を乗り越えることは至難の様に思うかも知れないけれど、しかし、意外と誰もがその才能を秘めていると僕は信じているし真実だと思う。

時代を超えた創作物とは、自分のCoreのさらにまたCoreを徹底的にみつめ、人生の全てをそれに捧げる。ということなのだと思う。なかなか出来る事ではない。命を捧げる位のことだから。

そんな者になる必要など全くない!と言うのが世間一般の大半の意見かもしれませんが、僕は有名無名は兎も角、ふるっ!と未来の人達に言われたくない、と思いますし、その気概を持って創作に演奏に従事していきたいと考えています。