僕は小学生の頃から本を読むのがとても嫌いだった。その理由の一つに、言語能力が人より劣っている事の他、もう一つ理由がある。
僕の父親は、作家になることを目指していましたが、デビューなどはできず、しかしながら広告代理店でコピーを書くいわばプロの物書きだったのです。
父親は、僕が喋る内容が理解出来ないのか、はたまた文法的に変なのかわかりませんが、何時も僕が何か言うと、「なにゆうてるかわからん」と言われた。
また、父は本を斜め読みが出来るみたいで、僕も本は斜め読み出来ないといけないんだ!と小学生ながら思いました。しかし斜め読みしたところで内容がわかる訳が無い。
そんな事で言語能力に苦手意識を持った僕の国語の成績は他とくらべ何時も悪かった。
例えば、「それを指しているのは、どれにあたりますか?三文字で答えよ」みたいな問題を正確した事がない。
そんな事で僕は長く間日本語コンプレックを持ち続けました。
それから何十年と月日が過ぎ、ちょうど厄年に入ったころから、僕は精神的に患い、先が全く見えない時期が長く続いた時期がありました。ちょうどその時期に、今までコンプレックを抱き続けた読書をはじめました。
その時、どうせなら皆が読まない、精神性の高い本を読みたい、それを読む事でこの苦しみから少しでも逃れる事のヒントを見つけられたら、と思いました。
当時、ドストエフスキー、ショーペンハウワー、ゲーテ、三島由紀夫、初期仏教、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教関連の書籍などを読みあさりました。
僕はまさかドストエフスキーなど一生読まないし理解出来っこないと思っておりましたが、ゆっくり亀の様に読めば、全然難しく無いし、夢中で読みました。
それは何よりも、生きるヒントを死にものぐるいで探していたから読めたのかもしれません。
有難い事に、それ以来、僕にとって本を読む事はとても大事な事となりました。
本を読むのが極端に遅いからこそ、読解力が人より劣っているからこそ、ゆっくり味わって読む事が出来る。
苦手な事が幸いする一つの例かも知れません。